2022年ゴールデンウィーク講習会レポート
去る4月29日より、ゴールデンウィークの講習会に参加させて頂くことができました。
前半三日間は初級中級、後半三日間は中級上級の講習内容で、特に後半には四朗寛の第二路、四朗提をご指導いただける機会があるとのことでしたので、自分の体力と相談することも忘れ、計六日間の参加を希望させていただきました。
講習会の前半では站椿や歩法、開門八式などの基本功、小架、単打、六肘頭、六大開拳などについてご指導をいただきました。
毎回思うのは、基本功が初級というのは、単に教わる順序が最初の方だというだけで、本当に難しい部分はむしろ、この中にあるのではないかということです。
複雑な套路や武器も教えて頂いて、当然のように巧くいかなくて、悩んだときの答えはだいたい基本功の中で見つかります。
また応用で学んだことは、基本功の中に持ち帰ることができるようになっています。
例えば上歩掌のとき、対象に指先が届く瞬間に掌を煽り上げる、というお話がありますが、これは本当に難しいことで、いつまでたってもできるようになる気がしません。
もしかすると、対象に指先が触れたときの、自分の骨格の形に沿って、力の向きが変化している面もあるかもしれないと思っています。
だとすれば、空打ちよりなにか物を打ったほうが理解が早いことになります。
ものを打つとき必要のない筋肉に、なるべく「仕事をさせない」ような骨格の形が軌道を決めていて、掌の動きもその影響を受けているのかもしれません。
考え始めると迷宮に入り込んでしまいますが、後半の四朗寛や四朗提に至っては、理解が進むのに何年かかるのか、見当もつきません。
今回、呉連枝老師が書いてくださった拳譜と解説の資料を頂きましたが、四朗提にはもともと拳譜は存在せず、全て口伝と直接の指導によってのみ伝えられてきたそうです。
私達が套路を見て理解できることはごくごく限られていると思いますが、ご指導頂いた中で特に印象に残ったことを、幾つか挙げさせていただきます。
まず四朗寛、四朗提ともにですが、盤提に加えて掃腿や四封四閉の動作がとても多く含まれていました。
掃腿は基本的に径が小さくて速いものが多く、両腕を使って生んだ回転力を足に伝えている感じで、四封四閉も小さく速いですが、後ろ足をコンパクトに送って生まれた回転力を上半身に伝えているように見えます。
力の伝達方向が上下逆になっているだけで、どれも相手の安定を瞬時に奪うことが主眼の動作だと感じました。
また八極拳には投げを打撃で行う、打シュワイという考え方がありますが、四朗提には禽拿を打撃で行うような動作が多く見られました。
これは相手の関節を固めるのではなく、破壊してしまうのが目的のように思われます。
動きはコンパクトで速く、優雅に見えますが、用法を想像するとなかなかに残忍で、なおかつ一人の相手に長く接触した状態を良しとせず、多人数を相手にするというコンセプトにも合致していると思いました。
そして四朗提の後半には、全く同じコンビネーションが三回出てきますが、この組み合わせを他の套路や基本功では見たことがありません。
ごく普通の単招式を組み合わせただけで、それぞれの招式は何処でも目にするものですし、動作も美しいので、他の套路に出てきてもまったく不思議はないのですが、実際に動いてみると最初のうちは違和感が凄いので、練習したことのない組み合わせだとすぐにわかります。
一度足を踏み変えた後は上歩しないのに、胯の切り返しは大きいので、近い間合から大きな力を出せる仕組みだと思われますが、このような一見地味に見える技術が、長い間秘密だったのかもしれません。
また見るたびに絶望させられる野馬奔走ですが、徒手の套路で似た技術を探すのが難しく、武器の九宮純陽剣が若干参考になる程度だと思いました。
四朗提は四朗寛より劈掛の要素が強くなるとの事でしたが、純陽剣も劈掛から来ているそうなので、併せて練習すると良い効果があるかもしれません。
他にも四朗提に関しては、今回はじめて公開された事実がいくつかあり、そのどれもが驚きの内容でした。
小架二路や単打の様な套路は、自分の体からいかに大きな力を引き出すかを重要視しているように見えますが、四朗寛や四朗提は、ある程度技術を持った人間に囲まれたとき、相手の出方にどう対処するかという、対人の技術が詰まっている様に感じます。
四朗提は、それまで順序だけは何とか覚えている程度の状態でしたので、正直雲の上の套路のように思っていましたが、今回あらためてご指導を頂いて、少しだけ身近に感じることができるようになりました。
ただ当然ながら初級、上級にかかわらず、まだ全く理解できていないことが圧倒的に多く、以下の段につきましては、講習会を通じて個人的に持った感想に過ぎないので、間違いも多いように思われますがご容赦ください。
まず昨年に引き続き今回の講習会でも、八極拳の長い歴史の中で、呉連枝老師が公開に踏み切られるまでは、ずっと秘密であった内容に触れられています。
具体的に秘密であった内容をここに書くことはできませんが、それぞれ秘密になっていた理由はたいへん勉強になりました。
初見殺しで、見せると対策されてしまうもの。
原理を説明しているため、分析が可能になるもの。
繰り返し動作を多く含む、套路の形をした練功。
初見殺しは、技術を見たことのない人が対応するのはほぼ不可能と思われるもので、たいがいはとても難しい基本功です。
初見で対処が難しい技術は、套路そのものを見せないか、套路の中に原理原型のままでは含まれず、変化としてのみ表れているようです。
また原理を説明するものには、套路などのほかに口訣が伝わっており、理解を深めるためにはその双方が必要となりそうです。
かつて表演のための套路には、同じ条件で一通りの技術を見せ合うため、二分間の縛りを設けたと考えられますが、二分間の套路には、繰り返し動作をあまり入れられる余地がありません。
繰り返し動作が多い套路で二分を超過するようなもの、特に練功を繋げて套路にしたようなものは、一通りの技術を見せ合うことを目的とせず、繰り返し動作を抜き出して反復練習する素材の役割も持っているようです。
これらの技術をある程度見せて頂いているならば、どの套路のどの部分を抜き出し練習するとよいか、目星をつけておきたいところです。
例えば套路冒頭のコンセプトを表現する難しい部分、また繰り返し動作になっていて、練習を始めた頃には全く再現の覚束なかったところ、あたりを抜き出して反復練習することから始めてみたいと思っています。
套路の中には、八極拳を理解し、強くなるために必要な情報が圧縮して編み込まれているはずなので、必要に応じてその一部を取り出し、繰り返し抜き出し練習することが、最初から想定されているように思われます。
また単招式で抜き出し練習をしていても、一人で空打ちしているだけでは、仕組みが理解できないものが非常に多いと感じます。
対人で掛ける練習をさせてもらう、あるいは実際になにか物を打ってみる。
この過程で自分の体に返ってくる力や感触、相手の反応、といったものを見ながら、自分の動作を修正し続ける必要があります。
単招式の空打ちで形を真似る練習を土台とするなら、対象にどのように力を伝えるかという練習を上に重ねなければなりません。
いっぽう武器の練習をする上では、その武器の性質を理解する必要が出てくるように思われます。
どこを押せばどう動くのか、先端まで力を伝えるにはどう操作すればよいのか。
同じように対人練習を積むには、人の体の性質を知らなければならないと思いますが、自分が単招式で物を打つ練習を始めると、自分の体にいろんなことが起こるのがわかってきます。
沈肩墜肘を守らなければ体幹部の力は肩で途切れてしまいますし、肘が伸び切れば自分の関節を壊してしまいます。
でも対人練習の相手が自分と同じ人間である以上、自分の体を練る過程で経験したことは、相手の体の中にも起きるはずです。
講習会では四朗寛の順歩単提を対練する機会があり、相手の拳打を飲み込んで送り返すときに、相手の体幹部が回転して力が逃げてしまいます、と質問してみました。
それで思い出したのが、点子手のときの自分の肩と首の位置関係で、当てる瞬間に自分の肩の後方に首がないと、当たった反力で自分の体幹部が回ってしまい、力が逃げてしまうということでした。
同様に相手の肩の延長線上に首がある状態であれば、腕に加えた力が逃げずに体幹部まで届くかもしれません。
先生のお答えは「位置取りを工夫する必要があります」とのことでしたが、位置取りを微妙に動かすことによって、自分から見た相手の肩と首の位置関係を整えてあげることも、可能になるのではないかと思いました。
八極拳では、成招する瞬間に両儀になっていないといけないそうですが、両儀のことを架子と表現することがあり、これは日本語でいうと骨組みのような意味だそうです。
例えば両儀の骨格に注目すると、相手に力を伝達できて、相手の力を安全に受け止められるような、骨格の形が必要になるはずです。
訓練をした人は手先の力より体幹部の力のほうが大きいので、自分と相手の体幹部の間にある骨格の形を工夫することによって、自分と相手の体幹部が、力で連結された状態へと持っていきたい、また可能であるなら、体幹部が直接噛み合った状態にまで相手に接近したい、ということになります。
順歩単提では、自分と相手の肩の状態を似せることを考えていましたが、相手を全く逆の状態に持っていった方が良いこともありそうです。
沈肩墜肘は、自分の肩の縦の動きをフリーにすることで、体幹部の力を妨げずに相手に伝えるためにも重要な条件であると思いますが、相手の肩関節もフリーの状態だと、いくら相手の腕を動かしても、体幹部まで力が届かずに逃げてしまう可能性があります。
逆に相手の肘と肩を持ち上げることができたら、相手の関節の自由度が減って、より奥の方まで力を伝えられるかもしれません。
例えば小纏をかけるときに、相手からすれば握った手を離してしまえば良いのですが、かける直前に足を軽く蹴ってあげると、反射で一瞬握りが固くなるので、そこを狙うことで手首にかけやすくなります。
手首に効かせると相手の姿勢が崩れて、肘は逆に持ち上がるので、今度は肘にかけられるようになる。
肘に効かせると今度は肩が持ち上がって、という具合に遡ってゆくことが可能になるかもしれません。
相手の体が硬直することによって、武器を操作するように、相手の体の奥まで力を伝えやすくなると思われるからです。
先生は以前、武器の練習をしている人は常日頃から武器を手にとって弄っていないと、どんどん下手になってゆくと仰いました。
対人練習についても、日頃から人体に触れていないと、技をかける技術が衰えてゆくように思われます。
私達もコロナ禍の影響で、かなり長い間対人練習を封じられて、久しぶりに誰かと手を合わせると物凄い違和感があって、急速に感覚が鈍ってゆくことを思い知らされました。
そうでなくとも、私達はもともと一人で練習する時間ほどには、対人練習の時間を確保できないのが現実です。
対練をしたければ教室まで出掛けていって、自分の練習に付き合ってくれる相手を見つけなければなりません。
ですから、例えば一人で物を打つ練習をしているときにも、自分の体に起きることをよく観察しておく必要があるように感じます。
呉連枝老師が対打を実演されると、相手の人は自分の体を操作されているような気がする、と仰います。
外から力を加えたときの人体の反射、外からの力に抗えない関節の方向、相手を誘導する心理的な技術などを組み合わせることで、武器を操作するように、相手の体をある程度操作できてしまうとしか思えません。
人体は武器より遥かに複雑な構造をしていて、それぞれ自分の意志で動きますが、武器と同じように扱いに慣れることはできる。
仮にそれが実際に可能であるなら、おそらく「敵」という概念が揺らいでしまう気がしています。
半分妄想のような話になりますが、相手が目の前に対峙しているとき、そこにいるのが敵ではなく単なる人体であるなら、それは自分の体と同じ構造を持っていて、自分の体で経験したのと同じ法則に支配されていることになります。
自分の意志で動くけれど、その動きをある程度誘導することができ、力を加えることによって反射を引き出すことができる。
果たしてそういう対象に敵意を感じる必要があるでしょうか。
また敵意も脅威も感じていないような人の、動く気配を察知することはとても難しいように思われます。
不思議なことに呉連枝老師に技を掛けてもらった方々は、飛ばされたり転がされたりしながら一様に笑っておられました。
逆説的に聞こえますが、武術を通じて相手に敵意を感じなくなってしまう事があるなら、とても興味深いことだと思います。
一人で練習するときは相手がいるつもりで、実際に使うときは相手などいないつもりで、習熟すれば草を抜くように人を投げるといわれますが、これも一種の「無敵」なのではないかと思いました。
今回の講習会を通じて、対人練習を指導して下さる先生や、対練に付き合ってくれる方々が、いかに貴重でありがたい存在であるかを痛感しました。
対打や六肘頭では、仲の悪い人同士は組ませないという話がありますが、怪我を防ぐためだけでなく、互いの上達のためでもあるように思います。
なにより同じ技術を求める人達と試行錯誤するのは、とても楽しいことだと思います。
最後になってしまいましたが、今回の講習会を企画していただき、たいへん熱心にご指導くださった服部先生に、そして参加者の皆様に、こころから感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
本部土曜教室 高須俊郎 |