2021年度 開門拳社 GW講習会レポート
2021年5月、昨年は新型コロナウイルスの流行により中止になってしまった開門拳社恒例のゴールデンウイーク講習会が行われた。
直前に緊急事態宣言が発令されるなど、まだまだ新型コロナウィルスは猛威を振るう中でマスク装着、徹底的な消毒など、これまでにない形での開催となった。
今回行われたGW講習会は合計5日、4月29日と5月2日に【八極拳基礎講座】、5月3~5日に【八極拳上級講座】が行われ、私は後半の上級講座の方に参加したので、こちらはそれをレポート致します。
上級講座一日目
呉氏開門八極拳を理解する上で、学習するべき套路は3つあると言われる。小架、単打、そして四朗寛である。
四朗寛は昔より秘伝とされ、呉家の一部の人間にのみ伝承されてきた歴史を持つ套路であり、現在の宗家である、七世掌門人である呉連枝老師によって初めて公開された套路である。
今年の講習会の上級講座のテーマはこの四朗寛と八極拳の代表的な兵器である槍であった。初日は四朗寛を指導して頂いた。
今回は参加者が套路の順番は一通り覚えているという状態だったので、套路のポイントになる動作や難度が高く、動きの意図をつかみにくい動作の用法を理解するための対人練習を中心に行われた。
揺錘、順歩単提などを相手がいる時に、どういう風に体を使えばいいのか、相手が押してくるときに歩はどのように用いるべきか等、普段の教室と違う相手の力を直に感じられるのはとても貴重で得難い経験である。
套路の動きの解釈が相手の圧をかけられた状態でもきちんと成立するのか?圧をかけられた時に無理な力を使っていないか?姿勢は崩れていないか?など色々とチェックさせて頂いた。
上級講座二日目
二日目も四朗寛を中心に稽古は行われた。一日目は、対人練習を中心に行われたが二日目は全体の動作を確認、それぞれうまくいっていない動作の修正や難しい身法を要求される部分を詳細に指導していただく。
四朗寛は大きな発力を要求される動作は少ないが高度な身法を要求される部分が多くその解釈も多岐にわたる部分は多い、二日目は教練も多く参加されていて、教え方も伝え方も動きもそれぞれの特色があり、一つの套路でも色々な解釈の方向、向き合い方があるのだなと感じる。
長年練習するとそういった色がしっかりと出てくるものである、それもまた武術の面白さなのだなと思う。このような部分によって人を知る、人と関わる、というような事もまた以武会友とも言うのかもしれないなと思った。そしてまた、自らもまた練習の中に、そういった日頃の練習、態度、人柄が顕れるのかもしれないなと、襟を正す思いになった。
上級講座三日目
最終日の三日目は月刊秘伝の取材もあり、理論解説やミット打ち、そして槍などを中心に指導していただいた。久々のミット打ちで拳と歩の関係を改めて考えさせられた。
前半はミット打ち、どうしても対象物への打撃が目的になり、そこに意識の大半を向けてしまいがちになる、すると歩が焦り、疎かになる、八極拳の力の中心である脚部からの力が使えなくなる。
頭では理解できていても、実際に行った時にどうなるかは検証してみて誤差を知る、そこからまた一人で行う套路にフィードバックをしていく。基本的なことではあるが、とても重要だし、それを外から見て指導していただくことのありがたさも改めて痛感する。
後半は槍と徒手との関係について理論解説を受ける、槍と徒手の関係は漠然とは感じていたことではあったが改めて教えていただきそこを整理して理解することができた。
終わりに ~四朗寛について~
自分が初めて四朗寛を教えて頂いたのはたしか18年程前だったと思う。当時高校生だった自分は呉氏開門八極拳の秘伝と言われる四朗寛を見た時にもった感想は
「何か踊りみたいだな」
という少し戸惑いを覚えたものだったと思う。
まだ八極拳を学んで2年程度しか経っていなかった無知な私は発力が強力で実戦を重視する八極拳の極意だから、さぞ強大な技があるに違いないと思っていたのだ。
今になってみたら仕方なかったかとも思うし、もちろんひたすら無知を恥じる所もあるが、しかしその後18年の月日を経た今、改めて四朗寛について思うことは
「四朗寛は舞踊の要素を強く持った套路ではないだろうか。」
ということである。
踊り、舞踊というと中国武術にある言葉の「花拳繡腿」を連想するが、それは舞踊を「衆人の目を喜ばせるためのダンス」として捉えているところが多い気がする。
四朗寛における舞踊的な要素はそういった物とは違う、もっと舞踊の本質に迫っているものではないかと思う。
舞踊とは太古から連綿と続く歴史、思想、身体技術等を継いでいくための伝承形態である。世界のどこの民族でも歌と踊りを持たない民族はない、文字の発明よりもずっと古くから続いている原始的な文化である、日本でも「神楽」や「能」などはもまた連綿と古い文化、思想、身体技法を保存していると考えることができる。
なぜ昔の自分が四朗寛に戸惑いを覚えたかというとそれは「武術は使うもの」と考えていたからだと思う。
それは一面的には間違っていない、もちろん武術は対人戦闘を想定した技術体系を根底に成立している、だから対人戦闘の優位性を求めることは間違いではない。故に用法解説、対人練習によってその用法と研究することも間違いではない、しかしそれがすべてだと思うと套路というものが持つ様々な要素を取りこぼしてしまう。
「用法は大切だが、用法だけを見ていると四朗寛は理解できない。」
今回、服部先生が一日目に言われていたことであるが、まさしくそうであると思う。
「套路は作品である」
この視点が、最初に学んだ時の自分にはない発想だったように思う。その作品を読み解き、考え、検証し、演じることによって理解を深め、それを作った先人たちやそれを伝えてきた人々と対話していくように理解し、再現できるようにしていく。それが套路が持つ可能性ではないだろうか。 それは「対人戦闘技術」という視点からではそこに近づくことは難しいような気がする。
「八極拳は文化である」
呉連枝老師はよくそう仰るが、これは綺麗ごとでもなんでもない。文化として捉えないと八極拳の本質を知ることはできないのではないか、八極拳は無機質な戦闘技術の集合体ではない、文化として見なければ八極拳の持つ素晴らしい面をあまりにも多く見落としてしまう。
新型コロナウィルスの影響で社会が変わりつつある。人と接することの意味が変わりつつある今、武術もまた対人格闘技術とは違う価値を求められつつあるのかもしれないと感じることがある。
世事に疎く愚昧な私にはそれがどういう物なのかはわからないが、套路などの芸術的側面、站椿や気功が持つ宗教的側面が新たな光が当てられる日がくるのかもしれない。温故知新という言葉があるが、それは伝統の持つ多様性、多義性に目を向けることかもしれないと今回の講習会で思った。
最後に、急な緊急事態宣言の発令などで大変な中、講習会をしていただき、熱心に指導していただいた服部先生。会場の確保、感染予防などをしていただいた事務局様。そして道具の運搬などをしていただき、指導補佐をしていただいた教練の皆様、参加者の皆様にも感謝しております。
2021年 5月 大森教室 高久慎司 |