2012年 呉連枝老師講習会 参加レポート
今年も呉連枝老師を招聘してのゴールデンウィーク講習会に参加させて頂きました。
今回は4月28日からの3日間が短棍の套路「八回頭棍」、5月3日からの3日間がそれぞれ「小架と基本功」、「単打と対打」、「四朗寛拳」と、徒手を総合的に学習する内容でした。昨年は東日本大震災と、それに付随する原子力発電所の事故の直後でもあり、流石にあの混乱状態のなか、とても呉連枝老師をお招きすべきとはいえない状況でしたので、今回の講習会では二年ぶりに老師にお会いする事ができて、とても幸せな6日間を過ごさせて頂きました。
講習会の前半では「八回頭棍」という、短棍の套路をご指導頂きました。
「八回頭棍」は呉家の短棍の最も古い套路で、呉連枝老師が19歳の頃にご父君呉秀峰公から教わったものだそうですが、最近になって当時の資料が出てきたため、あらためて拳譜を整理されたということです。短棍は文字通り短い上に刃なども付いていないので、相手に致命傷を与えてしまう危険性が低く、持っていても何の変哲もないただの棒ですから、いろんな意味で現代向きの兵器だそうです。
ですが、もともと呉家の短棍は秘密武器であり、諸外国はもちろん、中国本土でも殆ど公開されていない、大変貴重なものです。ですから私達のような外国人の、それも一般の学生にまでご指導頂けるというのは、通常とても考えられないことで、だからこそ何とか順序だけでも、期間中に覚えたいという気持ちは強くありました。
しかし「八回頭棍」は非常に長い套路で、感覚的には九宮純陽剣に匹敵する程と感じます。初日に順序を最後まで通してみて、「これは非常にヤバい」と分かって、内容はともかく一人で通して練習できるところまで、三日間で辿り着けるかどうかは疑わしい状況でした。三日間の講習会で体験した事からは、いまだ解らないことの方が圧倒的に多く、以下はどうしても印象と憶測とが入り交じった内容になってしまいますが、個人的な覚え書きを兼ねて書かせて頂きます。
套路の構成としては、基本的に一直線上を往復する回数が多いので、途中で順序を取り違えやすいと感じました。動作も、持ち手を常に滑らせながら、突然剣の動作になったり、刀の動作になったり、短棍独自の動きが出てきたかと思うと、拳や掌で打ってみたりと、徒手に非常に近い用法まで目白押しなのですが、とにかく情報量が多くて、長さ以上に覚えるのがしんどいです。
短棍の套路の中には、刀剣棍槍、全ての動作が含まれているそうですが、あまり練習していない武器に由来する動作は、表面上何となく真似しているだけで、理解できていないと痛感します。三日目の後半になって、ようやく順序が繋がりかけた様な状態で、上達云々などと言い始めると、気が遠くなる一方の内容でした。現在の実力から言いますと、正直なところ「まったくお呼びでない」段階で習い始めてしまった事になります。
以前新しく編まれた短棍の套路を教えて頂いた際にも感じたのですが、他の武器から来ている動作でも、その元の武器よりも短棍の方が難しくなるといいますか、元の武器での要求を、短棍になると見失う場合が多いです。例えば打花子は、重さや長さがないだけ花槍や行者棒よりも回しにくく、扎や拿扎も槍よりも軽いので、体幹部から離れてしまっても辛くならない。また剣と違って長穂がないので、振り方を間違えても、絡まって教えてくれる訳ではありません。元々の武器をそれなりに練習していないと、軽くてどうにでも動かせる分だけ、間違った使い方に陥り易いと感じます。他の武器を練習した事のある人しか気付かない「隠れた情報量」が、非常に多い套路だと思いました。
また全体の印象としては、短棍は武器の中でも、徒手との境界があいまいな様に感じられます。片手に短棍を持っているのに、反対側の拳で突いたり、相手の武器を掴んだり、あるいは棍把を使って禽拿をかけるとか、徒手の招式を短棍を持ったまま行うような部分がとても多いです。厨二病的な表現ですが、このあたりは武器というより、強化外骨格の様な印象を受けます。
同じく徒手に近い動作として、新編の短棍の套路には頻繁に出てくる掛塔が、八回頭棍には一回も出てこなかったり、他にも意外と新編の短棍の動作と被る部分が少なかったのも驚きでした。これらは用法の変化である可能性が高く、他にもかなり多くの応用が隠されている予感がします。
呉連枝老師の用法解説を見ていて感じたのは、例えば簑を被るようにして敵に接近した後、殆ど徒手の間合と変わらないくらい相手に近いところからでも、短棍の使い方が大きく伸び縮みするという事です。相手の目と鼻の先にいる状態でも、相手の頭のてっぺんから爪先まで、全身どこにでも棍が届くのです。しかも短棍は、畳んだ状態から伸び切るまでが極めて捷く、相手の視界からは何が起こったのか多分見えていません。そういう意味では、これは一概に「短い」武器であるとも言い切れない様に感じます。
その一方で、例えば棍を短く持って、梃子を用いる様に棍把を倍力して禽拿を掛ける場合などは、徒手の拿法と同じくらい自分の体幹部に近いところで仕掛けるので、本当に距離感が自在です。
短棍を用いた拿法については、武器で禽拿を見る機会があまり無いせいか、皆さんとても注目されていました。通常は徒手で行う事を、徒手と殆ど違和感のない形で、倍力して掛ける技術はとても優雅で、かつ恐ろしいものでした。このあたりも強化外骨格の様に見えると感じた理由の一つなのですが、以前に呉連枝老師は、短棍を持ったまま単打を表演された事があり、今回の講習会でも「短棍の招式は、その多くが両儀そのものです」と仰っていた事から、もしかすると徒手の技術のほとんど全てが、そのまま短棍で運用できる可能性すら考えられます。
徒手の鍛錬を積んだ人であれば恐らく、相手の蹴りを手で打ち落とす事ができるでしょうが、そういう人でも刀や剣の攻撃を、素手で受けることはほぼ不可能だと思われます。でも徒手に短棍を持っているだけで、例えば簑を被る動作で剣に抗し得る、それどころか大槍の様な、明らかにパワーに勝る武器に対しても平気で割って入る訳です。その後は刀剣棍槍のどの技術をもって反撃しても良いし、徒手の招式を倍力しても良いと。だから手に持つというよりは、徒手の技術の上に帯びる武器であり、さらに他の武器での経験を組み込んで、徒手の技術と織り交ぜながら使える、そういうものだとしますと、そうそう短期間で扱える様になるはずもありません。
呉連枝老師は「八回頭棍は、八極拳の良いところを集めた兵器です」と仰っていましたが、その真価は私達の計り知れないところにあると感じました。恐らく、いろんな武器を経験して、修練も積んでいる様な人が、最後にいろんな武器の良いところを徒手の技術と統合して、「一つだけ持ち歩くならばコレ」という武器になってゆくものと思われます。
今回もまた「いつか扱える様になるといいなあ」という、憧れの対象がひとつ増えてしまいましたが、下手でも諦めずに練習を続けてゆきたいと思います。
後半の三日間は徒手の講習会で、初日は立ち方、対練、動功、六肘頭に開門八式、そして小架一路についてご指導頂きました。
今回個人的に印象に残っているのが、冲拳、トウ掌の際に、通常ですと点子手で跟歩したら一旦静止して、続いて上歩して打つのですが、二往復目には、点子手で止まらずに上歩して打つ練習を行った事です。啓歩は発力のセルスターターなので、前足の半歩の力をそのまま上歩に繋げるという内容だったと思うのですが、これがかなり難しく感じたのを覚えています。八極拳では、相手が崩れている時のみ上歩できるというのが基本的な考え方だったと思いますので、使いどころは限られるのかも知れませんが、体の切り返しが巧くできるようになると、とても威力が大きくなるような気がします。
そして向捶をご指導頂いている際に、向捶の重要な意識とは「貴方が打つから私が打つ」であり、相手の肩が動くのが見えたら、即座に自分も動く必要がある、とのお話がありましたので、「相手が打とうとする場所が、上なのか下なのか、振り回してくるのか等々、あまり考えずに打ってしまって良いですか?」と質問してみました。すると呉連枝老師は、「相手が何をしてくるかによって、肩の動き方は違うはずです。それは体験を積み重ねることによって、瞬時に見分ける事ができるようになります。実戦ではもともと、そんなに多くの選択肢が常にある訳ではありません。」と仰いました。
虚実の見分け方について質問された方もいて、それについては、「虚と実においても、肩の動き方が違います。どんな仕掛け方をしても、八極拳の『実』は一発で充分です。また、闘鶏の様に無敵式のまま相手に追従して、自分の動きの変化をきっかけに、相手の攻撃を導引します。」との事でした。
また普段の対練、対打や六肘頭などの中でも、相手の肩の動きがどの様な攻撃を示唆しているのか、学ぶ事ができるそうです。これは大変な驚きで、普段対練を練習している時に、この様な事を考えたことはありません。よく同じ練習量でも、得られるものは意識によって違うと言われますが、まさにその通りだと思いました。
これも他の方が質問されていたのですが、丹田の位置について、今回とても興味深いお話を伺う事ができました。呉連枝老師は現在、私達が一般的に考えている臍の下の丹田だけではなく、以前から仰っている上中下の丹田つまり、天突・壇中・臍下丹田の三ヶ所に加え、上は百会穴から下は海底穴まで、この体の中心全体の事を「丹田」と考えておられるそうです。
老師は以前、啓歩は丹田から起動する方法の一つであると仰っていました。どんな方法を使っていても、八極拳は、動き出したときにはもう丹田が動いていて、すべての丹田は同時に動くということでした。すると気になってくるのは、例えば回頭が、上の丹田である天突を動かす手段であるというお話で、そうだとしますと、回頭も「啓動」の一種である可能性があります。もしかすると回頭の始動は、想像していたより早めなのかも知れません。
また今回呉連枝老師は、一練拙力風魔の如しというお話のなかで、「賢い人の優れた技術も、十年練習し続けた愚か者に敵わない。実戦の勝負は数秒のうちに着くが、その数秒の背後には、長年続けてきた厳しい練習の時間がある」と仰いました。また後日には、ご父君である呉秀峰公が、掌門人になられるまでのお話を聞かせて下さいましたが、このあたりには本当にシビれました。呉秀峰公には、他派の套路であっても、一度でも目にすれば完全に再現できたという逸話が残っていますが、その理由の一端を感じられるお話で、偉大な先人には、そういう物語があるものなんだなあと思いました。
徒手の二日目は、主に単打と対打についてご指導頂きました。
私は全般的に単打が苦手で、中でも別子から四六歩の翻胯のところで、体が浮いてしまう感覚がありました。呉連枝老師にご質問してみたところ、「それは立ち方の練習が足りません。」という、まさに、その、まったく仰る通りでございますとしか申し上げようのないお答えを頂戴しまして、そのまま逃走したい衝動に駆られました。懺悔はともかくとして、実はもう一つ質問しようと思っていた事と、このお話の間には関連性がある様な気がしていました。
それは単打だと特に目立つ私の悪い癖で、「踏み過ぎ」というものです。何処で踏み過ぎているのか改めて振り返ってみますと、托槍式の前や単翼頂の前(それは四六歩の翻胯の後でもあります)といったあたりです。踏み過ぎというのは、だいたい足の上げ過ぎなのですが、それと同時に体全体が浮き上がっていて、そのせいで余計に足裏が地面から離れていた可能性があります。呉連枝老師は、招式の前に踏む動作の目的は、全身が沈む意識を作る為であると仰っていましたので、目的と逆のことをしていたのかも知れません。これについても、まず立ち方の改善が重要になると思われます。
また、この日の座学では六大開の陰陽についてのお話がありましたが、これはかなり驚きの内容でした。
六大開は、八極拳の招式を形作る六つの力の種類ですが、それぞれに陰陽があって、頂・単・提が陽の性質、抱・胯・纏が陰の性質を持っているそうです。また、八極拳の招式には全ての六大開が含まれていますが、攻撃性の強い招式では、その中でも陽の六大開二つと陰の六大開一つ、防御性の強い招式では、陰の六大開二つと陽の六大開一つが強調されている、という事でした。呉連枝老師のお話では、陽中の陰や、陰中の陽は隠し味のようなもので、それが招式の強さの理由にもなっているそうです。例えば上歩拳のとき、打ち手の頂に対して、引き手の抱がバランスして安定を保つため、仮に相手に引っ張られても崩れない、という事のようです。
すると定式には、強い陰と強い陽がどちらも含まれていて、安定を形作っている事になりますが、そういえば、両儀って陰と陽という意味だったような覚えがあります。そして強い陰と陽が同時に働く事で、招式が攻防一体になっているように思われます。上歩拳の引き手は六大開の抱というお話でしたが、呉連枝老師は以前、引き手の拳に相手の攻撃を引っ掛けながら、上歩拳を打って見せて下さった事があります。八極拳では、攻撃性の強い招式でも、それが両儀の変化である限りは防御の要素が含まれていて、逆に防御性の強い招式でも、それが両儀の変化である限りは、必ず攻撃性も含まれているので、攻防を同時に行う事が可能なのではないでしょうか。
六大開拳では、六大開の中の一つだけが他のものよりも強調されていると思っていましたが、その他にも、最初のもの程ではないにしろ、強調されている六大開が二つずつあるのかも知れません。それ以外の招式でも、六大開の強さに偏りがあるのが普通であるとは、ついぞ考えた事がありませんでした。例えば六大開拳の中には、特別に提胯合練単陽打という練習法がありますが、単陽打そのものは「単」の性質が最も強いと思われます。そして他の二つの六大開を名前から勝手に推測すると、提と胯という事になるのでしょうか。すると提(陽)+胯(陰)+単(陽)の組み合わせなので、攻撃性の強い両儀に分類されるのかも知れません。
呉連枝老師が仰るには、この招式は必ずこの組み合わせという決まりはなく、本人の意識次第で変化するとの事ですが、それぞれの招式の中の組み合わせは、今後の練習でも注意する必要がありそうです。
徒手の最終日は、四朗寛拳についてご指導頂きました。
この日最も嬉しかったのは、四朗寛の中にある向捶について教えて頂いた事です。今まで拗歩錘と提肘だと思っていたところで、呉連枝老師が、向捶と反向捶という号令をかけておられた事を、服部先生が教えて下さいました。他の套路でも「これは向捶の一種です」というところを幾つか教えて頂いた事がありますが、これらの向捶の変化について自分で気が付いたことは一度もありません。
今回の講習会では、向捶の定義を初めて伺う事ができましたが、その内面の定義は「貴方が打つから私が打つ」であり、外面の定義は「肘を体から離さずに、上歩せずに打てる」事だそうです。下に向かって打てば座跪膝、捩じ開ける様に打てば雲抄手、今回は引き手を低めに引いて打つ向捶でした。教えて頂いた定義に則って疑いの眼差しで見ますと、四朗寛の最初の定陽針や、小架の朝陽手の前の推窓のようなところも、向捶と似ている様に思えてしまいます。これはもうビョーキに近いですね。
教えて頂くまでは、なぜ殆どの套路の中に向捶がないのだろうと、ずっと疑問に思っていましたが、恐らくそういう事ではなくて、向捶の変化は沢山含まれているのですが、唯一「向捶の原型」だけが隠されていた可能性があります。理由は想像するしかありませんが、恐らく向捶は、その最初の「原型」が力の源であり、原型を学んだ事のある人が向捶の変化を理解して套路を練習するのと、そうでない場合とでは、発力の仕方に違いが表れるからではないかと想像しています。例えば跪膝ですが、これが向捶の変化であると思って練習すると、後ろの膝を引き付ける事によって力を出そうとする意識が強くなる様に感じます。
先程の六大開の三つの陰陽が、向捶ではどの組み合わせになるのか非常に気になりますし、向捶の変化にあたる他の招式で、三つの陰陽の組み合わせは変わるのかどうか、また同じく呉家三拳である、冲拳と掌の動作は似ていますが、陰陽の組み合わせはどう違うのか等々、今後の練習のなかで是非考えてみたいテーマですが、今回改めて強く感じたのは「開門八式は素晴らしい!」という事です。開門八式は、入門された方が恐らく立ち方の次に学ぶ、一番基礎的な招式ですが、今でも毎年重要な発見があって、そのたびに価値が膨らんでゆくのを感じます。新しい套路を教えて頂いても、その根っこの多くを開門八式の中に見出す事ができるからです。
また今回は、四朗寛拳の十大形意と十大剄別について、より詳しくご説明頂きました。
十大形意は十種類の動物の優れた姿を表していて、十大剄別は十種類の内在する力の性質を表しているそうです。また、十大形意と十大剄別は、各々が一対一で対応しているとの事です。例えば龍の形意は竪の剄に、虎の形意は崩の剄に対応している様です。2008年の講習会で呉連枝老師は、四朗寛の全ての招式には、これらの組み合わせが最低でも三つずつ同時に表れると仰っていました。この三つずつというお話を思い出しますと、先程の六大開の組み合わせを発展させたものなのかしら、と勘繰ってしまいます。
山崎指導員が、小架や単打を練習する時にも、十大形意や十大剄別を考えるべきなのでしょうか、と質問されていましたが、呉連枝老師は「四朗寛拳を学んだのであれば、意識の中にはあるべきです」と仰っていました。四朗寛拳を学んでから小架に戻ってきた時に生ずる変化の一つが、これらの意識なのかも知れません。このあたりは、私にとってはずっと先の話だと思うのですが、とても重要な事の様に思われますので、忘れないようにしたいと思います。
近年、呉連枝老師が来日され、直接ご指導頂く機会に恵まれる事が、どれだけ貴重な事であるのか痛感するようになりました。八極拳を学習している私達にとって、これ以上幸せな事はありません。その価値を活かしきれていないとすれば、ひとえに自分自身の練習量の不足でしかないと思っています。今後少しずつでも改善してゆかなければなりません。
最後になってしまいましたが、今回の講習会でも終始笑顔で、分け隔てなくご指導下さった呉連枝老師に心からお礼申し上げます。昨年の震災以来、ご家族の皆様のご心配を押して来日下さった事を伺っております。本当に、本当に感謝の言葉もありません。
また、この様な講習会を企画して下さり、期間中高難度の通訳をこなしながらご指導頂いた服部先生には、いつもの事ながらお世話になり通しです。本当にありがとうございました。そして今回の講習会でも、関西からお見え頂いた渡邉先生、周佐先生、石田先生には大変お世話になりました。誠にありがとうございます。また指導員の皆様、同門の皆様にはいつも大変お世話になっております。今後ともよろしくお願い致します。
土曜本部教室 高須俊郎
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