2009年度 呉連枝老師八極拳講習会レポート
2009年ゴールデンウィーク、今年も開門拳社による呉連枝老師を招聘しての講習会が催された。
今年のテーマは「八極拳の実用法」、主に小架一路〜四路までを中心に対練の方法を学んだ。
呉氏開門八極拳の小架について
呉氏開門八極拳には基礎とする小架、単打、四朗ェの三つの套路(三位一体)が存在し、その中でも小架は最も基礎に位置する套路である。
また、小架は代々掌門人による工夫により、三位一体の中で最も多種の套路が残されている套路である。それは、小架という套路がそれだけ八極拳において基礎的な物であり、またそれだけにその習熟が困難であるからであろう。
呉氏開門八極拳の小架は今現在、十七路伝わっている。まず、呉鐘公の時代から伝わる最も古い小架(これを老架子と称する)、そして、五世「呉会清」公が「老架子」を分析、解析して編集した小架(これを老小架と称する)が三路、そして六世「呉秀峰」公がそれらをさらに改良、工夫を加え編集した小架が十二路(現在一般に呉氏開門八極拳において小架と呼ばれているもの)である。
小架一路〜四路の風格と特徴
呉秀峰公によって編纂された小架は、前段でも述べたとおり全十二路とそれまでの小架と比べて非常に多数であるが、それぞれの風格も特徴も異なる。
今回学んだ一〜四路の特徴について言えば、「一路」は老小架一路を元にして、長拳の要素などを取り入れ、身法養成、勁力開発などすべての面に於いて、おそらく現在最も優れた小架である。
小架二路は一路同様、老小架の二路を元にしていて、老架子の要素が強く、また行劈拳の要素も見られ、剛性の風格の強い小架である。呉鐘公の時代の古い八極拳の風格を色濃く残している。
小架三路も老小架三路を元にして、短距離からの発力、啓歩が特徴的である。老小架三路の要素も強いが小架二路を短距離の発力で行うように開発した套路という印象も受けた。
小架四路は、四朗ェの要素を取り入れた套路で、それまでの三路とは若干異なって畳手などの四朗ェの技が散見し、柔性の強い風格をもっている。呉秀峰公の風格を知ることの出来る套路でもある。
老小架一路の対練
今回、小架を通して八極拳の実用法を学ぶということでまず行われたのは「老小架一路」での対練である。老小架の対練は老小架一路を向かい合ってお互いに行うという単純なもので、形自体を習得するのは容易である。しかし、呼吸を合わせ、間合いを調節したり、「相手と調和すること」が主眼となっている。実際に手を合わせる対練などでは接触点や相手に意識がいってしまい単純な圧力の掛合いになってしまい、それまでに基本功や套路で培った身法や意識を忘れてしまうことが多い。こういう時にこういった対練を行うのは有効な手段であるし、手を合わせていない相手の力や呼吸を確実に読み取ることは非常に難しい。単純で動作は決して難しくはないが、その実、非常に高度な技術を要求される対練でもある。
これは私見であるが、この対練は「打気功」を身につけるために有効な対練ではないだろうかと思う。また、こういった練習方法を短い基本功などで行うことで、自由変化への道が少しずつ開けていくと思う。
六十四手論、自由変化への一つの梯子
呉氏開門八極拳は「両儀」が技術の基礎であり、『八極拳小架歌訣』の冒頭に『周易繋辞伝』の引用文が見られるように、『易経』が理論の根底に位置している。今回は五世「呉麟書」公によって書かれた六十四手論を学んだ、『続呉氏開門八極拳』に記載されている六十四手論とは別の物であり(呉連枝老師によれば『続呉氏開門八極拳』の六十四手論は掌門人によって書かれた物ではなく、易者によって書かれた物であるという)実践的な内容である。
六十四手論は短い対練であり、攻防合わせて六十四の技で構成される三十二個の短い対練の集合体である、しかし易の六十四卦になぞらえているため、これらの六十四の技のみを指して六十四手論と呼ぶ訳ではない。易の六十四卦が物事の万象の変化の兆しを知るためのものであるのと同じように、この六十四手により戦いの変化を学ぶことを目的としている。
こういった短い対練の組み合わせを最初はゆっくりと行い、徐々に拍子や間合いを変化させていくことによって八極拳を使う方法を研究していくための材料であるという意味で六十四手論と言うのだろう。今回はすべてを拝見することはできず、いくつか見せてもらったが、動作自体は単純なものだが、研究材料としてはとても興味深いものばかりであった。
套路と対練と実戦、講習会を通して
今回の講習会は小架を通して、実戦用法を学ぶことであったが、老小架一路の対練やそれぞれの小架を学び、套路という物が実に実戦という面から見ても重要な物であるかを改めて実感させられた。套路というものを他の格闘技のコンビネーションと同程度に解釈したり、他流と交流するための表面的な物としか解釈されていなかったりするが、呉氏開門八極拳に於いて套路はそういうものではなく、八極拳の技術や作った人間の思想や身法が凝縮されているものである。確かに基本功を行えば上手くすれば勁力を養成することが出来るかもしれない、対練を行えば相手と手を合わせて勝利することはできるようになるかもしれない。
しかし、それだけでは絶対に呉氏開門八極拳を理解することは出来ない。なぜなら基本功を行って養うことが出来る勁力は八極拳の一部にすぎず、相手と手を合わせて勝利しても、それは八極拳を理解したという証明にはならないからである。我々(少なくとも私は)が求めるのは一部の理解ではなく、八極拳という膨大にして高度な学問の理解をどんなに難儀であっても求め続けることである。
しかしこの套路という芸術品は容易には理解することは出来ない、なぜならそれらを読み解くには「功夫」という鍵を必要とするからである。套路の形を憶えてそれをただ漫然と繰り返していくのが套路の練習目的ではない、経書を読解するように、そこに示されている意図を一毫も漏らさず丹念に読み込み、正しく理解していくこと、それが套路を練習する意味である。当然の事ながら優れた名人、達人の作った物を本当の意味で理解するのは自分自身にも力量がなければ理解することは出来ない、だからこそ、その理解に努めることで「功夫」を養うことが出来るのだ。
確かに套路を練習しただけでは戦うことはできない、套路もまた八極拳の「一部」にしかすぎないのであるから。基本功、対練、兵器等それぞれの相互関係をもって、徐々に「功夫」を積んでいくのだ。試合形式でルールを設けて自由組み手をすることもたしかに有効な手段ではあると思うが、こういった練習は眼前の勝敗に目がいきがちで、そのルールで勝つための方法を模索して行きがちになるという欠点もある。功夫を積んでいない状態で行ってもただ体をぶつけあうだけで八極拳としての力の出し方や技術を身につけることは難しいと思う。大概に於いて、こういったものは基本功や套路によって身につけた技術をどう使えば良いか検証するために行うべきである。
しかし、八極拳の技術に限らず中国武術の技は実際に使うと危険なものが多く、ルールの上で行えるものには限りが出てきてしまう。そういった意味では自由組み手よりも対打などの約束組み手を功夫や理解度によって徐々に自由度を高めていく方が、ある面では八極拳を正しく使うようにするための有効な練習方法であるともいえる。
今回学んだ小架一〜四路、老小架一路、六十四手論、六肘頭、練功法、擒拿等とても多岐にわたる内容であったが、すべて呉氏開門八極拳であり、膨大な学問体型のほんの一部にすぎない。しかし、それら一つ一つが呉氏開門八極拳という膨大な学問を理解するために重要な鍵でもある。
私は、試合での勝利が欲しくて練習しているわけでもなく、誰かを負かすのを目的で練習しているわけでもない。ただ呉氏開門八極拳という優れた学問を正しく理解し、親しんでいきたいと感じた。
今回も当日の進行や学習しやすい場所作り、撮影など行って頂いた指導員の方々。講習会の運営や、呉連枝老師の通訳を行って頂いた、服部先生。そして非常に貴重な技術を惜しげもなく披露、伝授し、呉氏開門八極拳の奥深さとすばらしさを拝見させて頂き学習する機会を与えて頂いた呉連枝老師には大変感謝しております。ありがとうございました。
大森教室 高久慎司 |